二日丸々書かずじまいで過ぎてしまった。昨日は京大にて「第六回ヴィーコ読書会」があったので、そちらに出かけて刺激をもらい帰宅。ヴィーコとは、イタリアは17世紀ナポリ生まれの哲学者で、当時ヨーロッパを席巻したデカルト哲学の理性万能に抗して、人文主義的学知の復権を新たな学問観とともに樹立したことで知られる。
『新しい学』(1744年版)の第二部詩的論理学の第二章における比喩の文例で、書き留めておかないとどうにも落ち着かないところがあったため、それをメモして次に進むとしよう。
Post aliquot, mea regna videns, mirabor, aristas とのラテン語文がそれで、これは提喩が2つ、換喩が一つ含まれている、とのヴィーコによる説明だがどう理解したらよいのだろうか、というもの。バッティスティーニ注釈のMeridiani版(1990)にはちゃんと注釈が付いており、私の所有する二巻本の下巻p.1573にはこうある。
Post...aristas: 《dopo alquanti anni, vedendo i miei regni, proverò stupore》(VERG., Ecl.I, 69). まずはイタリア語に移すと、「何年かののちに、私の国々を見るならば、驚きを覚えることだろう」となり、出典はウェルギリウス『牧歌』第一歌69。バッティスティーニの解説を続けよう。L'esametro è un caso canonico di metalessi, ossia di connessione di più tropi: aristas, 《spighe》, è sineddoche di 《messi》; 《messe》 è dal suo canto metonimia per 《estate》; 《estate》 è sineddoche di anno.
んーっとこれを日本語にすると、「(ラテン叙事詩の)ヘクサメトロンつまり長短短6歩格の詩文は転喩(メタレプシス)の典型かいくつかの比喩(トロープス)の連結となっている。そこでaristas はつまり麦の穂のことで、これは穀物messiのsineddocheつまり提喩、次に穀物とは夏のmetonimiaつまり換喩、そしてまた夏とは年のsineddoche提喩となる。」と。そうなると提喩が2つ、換喩が一つ。ちなみに、もっとも簡単に言えば、提喩とは一部で全体を(その逆もしかり)、換喩は連想(原因・結果ふくむ)、ここにはないがもう一つ隠喩にはメタファー(ある物で言い換える)とアナロジー(ある物との類似)がある。
これだけでややこしいが、ヴィーコが描きつつ証明を試みているのは、おそらく太古の野獣どもがその肉体に根差す強烈な感覚から、想像力逞しく喩(後の文明化された世界からはメタファー、アナロジー、提喩、換喩などと分類される)を駆使しつつ概念を作り上げると同時に目の前の世界を意味づけていったその模様を言語の歴史から繙いていってくれているのであろうが、ああ数回読んだだけではまったくお手上げだ。以上。
2019_0210