『君主論』に戻ろう。第三章の混成型の君主国について(De principatibus mixtis)に入る。
新しい君主国にも二様があった。まったく新しいのと世襲の国土に新領地を付け足して作る混成型の君主国、マキャベリはそう区分している。もっとも喋りたいのがまったく新しい君主国にもかかわらず、そこに行くまでに第二章では「世襲型」が、そして第三章は混成型が説き起こされている。私は幾分ジレったく感ずるが。
(1) …E prima, - se non è tutto nuovo, ma come membro: che si può chiamare tutto insieme quasi mixto, - le variazioni sua nascono im prima da una naturale difficultà, quale è in tutti li principati nuovi: le quali sono che li uomini mutano volentieri signore, credendo migliorare, e questa credenza li fa pigliare l'arme contro a quello: di che e' s'ingannano, perché veggono poi per experienza avere piggiorato.
…最初に、-全てが新しいわけではない部分的手足のごとき君主国だが、そうした国はおしなべて混成型とでも呼んでおこう-、そうした国の変遷はひとえに本来の難しさから生じ、それはあらゆる新君主国につきものとなる。つまりは人々がより良くなると信じて主(あるじ)(トップ)を進んで変えようとし、この信念は彼らをして主(あるじ)(トップ)に対して武器を取らせることとなり、これが間違いのもとなのである、なぜなら彼らはのちに経験からしてより悪化したことを目のあたりにするからである。
混成型の新君主国には本来の、当然の、原語ではnaturale、こうした困難が生ずる、と。その説明は有名な箇所だ。上記の下線部のとおり、住民たちは進んでトップを変えたがり、そして武器を手に行動に出るものの、もともと浅はかなのか、後から必ず後悔に襲われる、と。決まって後の祭りとなるのは、トップを変えてみて何も良くなってないじゃないか、むしろ前より生活が悪くなっているではないか、と気づく羽目に陥るものだ、と。「住民たち li uomini」というのはどっちの住民を言っているのだろう。もともとの住民それとも併合された側の住民? 兎も角も、マキャベリはnaturaleと言っているのだから、混成型の君主国はお勧めしないということになる。騒動、騒擾が絶えないからである。
そこで今日のテーマは次の段落の人称代名詞quelliである。
(2) Il che depende da una altra necessità naturale et ordinaria, quale fa che sempre bisogni offendere quelli di chi si diventa nuovo principe e con gente d'arme e con infinite altre ingiurie che si tira drieto il nuovo acquisto:
こうなるのも至極当たり前のもう一方の必然に拠るもので、つまり常に新君主となる者の住民を傷つけることとなり、兵士たちは新領土獲得後に途方もない侮辱をもたらしてしまう。
混成型の君主国に絶えることない騒擾の「もう一つ」の当然で当ったり前の必然を述べているくだりなのだが、素直に原文を読むと決して気持ちよく分かるものではない。「つまり常に新君主となる者の住民を傷つけることとなり、…」とあるが、「新君主となる者の住民」とはだれを指しているのか、どっちを指しているのか。住民全体?、もともとの領土の住民?、新たに獲得した領土の住民?、この住民と日本語にした原語がquelliとなっている。イタリア語に未だに疎い私の迷いはこうだ。「テキストは、混合型つまり新たに領土を付け足す新君主国は、もともとの住民を兵役と新領土獲得後の夥しい侮辱行為によって傷つけるということか。quelliがどちらの側の人々を指しているのだろう、本国側として最初は意味を取ったが、反対なら新たに付け足される側、つまり具体例ではナポリの人々となる、そうすると新君主を迎えるナポリ側の住民は常に傷つけられ、兵隊によって、数々の侮辱によって、ということか。後者の方が筋が通る気がしてきた。残りのテキストも見てみよう。」とこんな調子である。
第一章では混成型の新君主国として、アラゴン家出身のスペイン王フェルディナンド5世(カトリック王)が1504年ナポリを併合したことが挙げられている。上記のquelliはもともとのスペインの住民なのか、ナポリ側の住民なのか、英訳で確かめると以下のようになっている。そう、確かに文脈から言っても、傷つくのはナポリの住民であろう。
"That follows from another natural and ordinarynecessity which requires that one must always offend those over whom he becomes a new prince, both with men-at-arms and with infinite other injuries that the new acquisition brings in its wake."
下線部の関係代名詞over whomで明らかに「王が新しい君主として君臨するところの人々」と解釈しているから、この場合はマキャベリがナポリの住民を念頭に置いていることが窺えるのである。
問題はここからである。イタリア語原文の“quelli di chi si diventa nuovo principe”なのだが、どうしてこういう書き方をするのか、マキャベリ先生に文句があるのである。なぜ「新しい君主をいただく住民」とかもっと単純に「君主にとっての新しい住民」と書かずに、「新しい君主となる者の住民」とdiつまりofで繋ぐのか。どういう頭の構造から、どういった思考空間からこんな表現になるのだろう。「新しく君主となる者」、その人の「あれらの人たちquelli」、スペイン王からつまりフェルディナンド5世から見て傍ではなく向こうの人々、たしかにquelliは複数形で英語なthoseで、「あっち」ではある。今回もっとも言いたいことは、マキャベリが肝心なところで代名詞それも人称代名詞を多用しすぎることへの不満なのだが、さらにどこに視点を措いて「あれそれ」を述べているか、ころころ視点を変えるな~っ、と叱責したいということなのだ。逆に言うと、どうもこうした書きっぷりにマキャベリの特徴があり、落とし穴が現在においてもなおかつ存在するように思う。
2019_0215