マキャベリ生誕500年祭の記念論集(Treccani版)から(その1)
Gennaro Maria Barbuto
VICO e MACHIVELLI
in Il Principe di Niccolò Machiavelli e il suo tempo 1513∞2013, TRECCANI, 2013
抄訳
ヴィーコとマキャベリの関係は近代になって、1924年にベネデット・クローチェが雑誌『クリティカ』誌上に二人の思想家をめぐる論考(「マキャベリとヴィーコ」、B.クローチェ著、Elementi di politica、バーリ、ラテルツァ、1925、pp.59-67)を発表して以来、歴史学と哲学上の論争に入った。二人の著述家の関係はそれによるとヴィーコが何度も自著のなかでマキャベリを批判していることに拠る。とくに、De antichissima イタリア人の太古の知恵?の序文において、ナポリの哲学者は、友人の哲学者パオロ・マッティア・ドリアが反マキャベリ『君主論』を書いたとして賞賛し、またDe Uno書名は?では、フィレンツェ書記官をして非難を込めてエピクロス、ホッブス、スピノザと同列に置き、人間の出来事において正義の可能性の余地を残さなかったと『君主論』を酷評した。さらに、ヴィーコはマキャベリが人間の歴史を偶然に委ねたこと、そして人間の側からの利益追求の単なる確認にとどまったことを批判した。
もう一押しすると、歴史と政治についての二人の偉大な神話的な創始者としてヴィーコとマキャベリの関係を考察するにあたり、稲妻とケンタウロス型君主を挙げることができよう、これらは彼らの著作を読む際に、優先的に解釈上の鍵をなしている。
ヴィーコは、人間性の起源に遡りながら、原初の野獣時代、大洪水後に裸の土地を動物のように徘徊していた野獣どもの時代を叙述する。動物たちは稲妻の轟音、彼らにすれば神と覚しき雷鳴に驚き入ったのちその眼差しを空に挙げ、すると神は彼ら動物たちをしてその獣同様の状態から、婚姻、埋葬を通じて文明生活へと動物どもを解放する。一方マキャベリはというと、グラムシ流に言えばケンタウロスなる<新君主>の<生ける神話>といった比喩が示すのは、政治とは、獣性と人間性、これこそ新君主の<ヴィルトゥ力量>なのだが、つまり獰猛さと思慮(遠くから見通す力)なくば成り立ち得ないということであった。
☛ mezzo uomo mezzo bestia
暗示的なのは、マキャベリもヴィーコも人間の出来事を理解するのにレトリックによる知を重宝しているらしいということ(フィレンツェ書記官にとって政治は<arte 技術 or 仕事>)であることを思い出してほしい)、それ{レトリックによる知}はデカルトにより人文主義-イエズス会的な結論のない無駄な教育に結びつけられていたわけであり、一方ホッブスは自身のリヴァイアサンの学を明示的幾何学的な慣習に基づくと了解している。だが、ケンタウロスはマキャベリの強力な想像力の産物であり(シャボー説)、かたや稲妻-神は原初の人間どもの旺盛な想像力に拠る神話であり、それによって神性は歴史の中に入り込むこととなる。P.286 途中・・・