ヴィーコとマキャベリ その3

マキャベリ生誕500年祭の記念論集(Treccani版)から(その3)

Gennaro Maria Barbuto

VICO e MACHIVELLI

in Il Principe di Niccolo Machiavelli e il suo tempo 1513∞2013, TRECCANI, 

2013

 

抄訳

 マキャベリの観測からすれば、市民間対立の党派性を妨げ、あらゆる限界以上に望みを抱くことで生ずる人間生来の<不満>を抑え込めるまとまった要因として、自国軍、法律、宗教がある。しかしこれらすべての要因は、単なる世俗界、時代を越えはしない。☛いきなり日本語訳では文脈が合わなくなってしまった。これだから困る、もちろん当方の読解力、理解力は棚上げしておいてだが。原文はこうである。Ma tutti questi fattori non travalicano la mera mondanita, il saeculum. 英単語に置き換えよう。But all these factors do not go beyond mere worldliness, the spirit of the age.  なぜまた動詞のtravalicareなどとあまり見かけたこともない単語を使うのであろう、「飛び越えていく」のだがこのニュアンスがサッと入らない、まずい文章に思う。大辞典の用例に当たるのを厭うと日本語による想像と空想になるから、そうなると世俗の世界であるこの世も、時代精神も「飛び越えて」これら自国軍、法律、宗教は成り立ち得ない、つまり反転して、自国軍、法律、宗教は自国軍、法律、宗教と密接に関わり合っている、でよいのだろうか。次に、travalicareの他動詞の辞書的意味として2番目に「《古》(命令などに)背く」というのがある。なぜまたこんな意味に、と訝る前にそのまま全体を訳出すると、「しかし、これらすべての要因は、単なる世俗界、時代に背きはしない。」 現世や時代とこれら三つの要因は密接な関係にある、とでも言いたいのか、しかし理屈はうまく言えないが、こういう古いか稀な用例には安易に飛びつかぬ方がいいことは経験上わかっている。結論としては、著者の表現が緩い、山の比喩でも想定してこの単語を選んだのだろうか、そして

前後の文脈からして著者の真意を手短にまとめれば、「自国軍、法律、宗教はあらゆる人間社会、時代を見捨てない」となろう。最後にダメ押し。なぜtravalicareを使うのだ???

 

 ジャンバッティスタ・ヴィーコにしても、軍事力は歴史において二次的でない役割を担っているちょうどアントニオ・カラファが従軍参加した戦争を克明に叙述した思想家にとっては、そうでないわけにはいかないはず。そのカラファの伝記中ではマキャベリの影響が強く、グロティウスの足跡を追って諸国間の戦争の法的理論化に自身の関心を寄せており、1600、1700年代の戦争はマキャベリの時代とは異なるものの、カール・シュミットがヨーロッパ公(共)法 jus publicum europaeum といずれ呼ぶところの範疇で行われていた。

 

 法、とくに自然法は、単に起源に結びつけて事たれりとするのではなく、その時代ごとの展望の中で評価され、ヴィーコにとっては摂理の歴史上への出現となっている。それは{摂理は}外部から押しつけられるものではなく、人間の自由の曲がりくねった行程を通じて活動を起こす。一方、マキャベリにとって法律は《自由意思 libero arbitrio》と結びつけられており、それを否定するところの運命から必然、偶然との永遠のコントラストの中でそうなのであり、形而上学的、自然学的、科学的あるいは技術的な保証は何もない。

 

 同じく宗教はというと、マキャベリにとっては単なる政治支配の道具であるどころか、さらにその{政治支配の}基盤となっている。とはいえ、まさに基礎づけられていない基盤であって、なぜなら超越とは何ら関わらないからである。マキャベリにとって宗教が興味深いのは、ただその社会的な《有効性》においてであり、だからこそヌマがニンフのエジェリアと言葉を交わしたと装った<敬虔な>不正行為はさほど問題とはならない。ヴィーコはそうではなく、宗教における意識的な詐欺行為を認めるわけにはいかないのである。こう言ってよかろうが、『君主論』の章中でもっともヴィーコ的感覚に蕁麻疹を誘発させるのは十八章のはずで、倫理的かつ宗教的な古典道徳違反の目録となっている。こうした数々の違反はマキャベリにとってヴィルトゥに溢れた{力量に溢れた}君主に許されるもので、なぜならヴィーコの見立てだが、フィレンツェ書記官は単に政治闘争に、何ら倫理上のひっかかりもなしに利益の追求のみにとどまるからである。途中p.288 ☛それにしても訳文が硬い、あとで全体を見渡し思い切ってさらにパラフレーズしてみたいもの、マキャベリとヴィーコ、何が似ていて何が違うのか。マキャベリを『君主論』だけで見るのはかなり早計だということは、晩年の『戦術論』を読めば分かるのだが、端的にヴィーコは超越を求めて歴史事象をそこへと根拠づけるから原理的思考と言っていいだろう、だから哲学であり、一方のマキャベリの方は一見過激だがどこまでも思考実験の守備範囲をはみ出ていない、表現が常に二分法、~か、あるいは・・・か、が基本で誤った最終結論に安易に滑り落ちないように工夫されているように思われる。顔相からして大胆と言うより慎重な輩であったと見受けられるのだがどうであろう、ただ読者の数は世界的に見てヴィーコはもちろん同国人のダンテをも凌ぐという、天才足る由縁なのであろう。