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ヴィーコとマキャベリ その4 ー慎重な行動人と田舎の超一流書斎人ー

マキャベリ生誕500年祭の記念論集(Treccani版)から(その4)

Gennaro Maria Barbuto

VICO e MACHIVELLI

in Il Principe di Niccolo Machiavelli e il suo tempo 1513∞2013, TRECCANI, 2013

 

抄訳

 一方ヴィーコにとって、マキャベリ的利益追求は摂理の活動という機会ならその価値を一変させる。注意してほしいが、ヴィーコの摂理は、イエズス会の1500から1600年代にかけての反マキャベリズムの摂理ではなく、彼ら{イエズス会}はローマ教会ととくにローマ教皇の無視できない仲介役を果たしていたにせよ、{ヴィーコの摂理は}<謎に包まれた>とある<基盤>であり未知のものであって、ヴィーコが強調しているようにその発展も結果も予見不能で、いかなる権力もその地上の声を我が物とすることができぬほどなのである。摂理の行程が人間の歴史において跡づけられるのはもっぱら事後のみ ex post。歴史とは、マキャベリにとってもヴィーコにとっても、決定論とはほど遠く、そうではなくて人間の自由の増大礼賛である。同じサイクルの観念が二人の著述家によって解釈されており、それは時間軸に沿った必然的な線形グラフとはならない。マキャベリは暗示的に引用しながらもポリュビオスの自然主義からは距離をとり、そうした線形ラインは人間の思慮と予見力でもって粉砕でき、さらに《必然》が意味するものとは、君主が身をさらす具体的な陰謀のことだと述べている。ヴィーコはというと、その回帰ricorsi理論は他でもなく強力な者たちや制御がきかずバラバラな個人主義者たちによって腐敗した社会における大惨事の危機のことで、そこへと絶頂に到達した文明は真っ逆さまに落ちていく。歴史とは、マキャベリにとってもヴィーコにとっても、《諸機会 occasioni》の継続的で対立的な緊急事態であって、それ{諸機会}が人間の自由な行動を促すのだとする。

☛この段落も固い、表現がこなれていない気がする。日本語にしても意味が頭から消えていく。結論部に差しかかりながら、こういう論点が拡散していく書きっぷりはどうにかならないものだろうか。マキャベリは地上の政治活動における利益追求、一方ヴィーコは摂理の事後点検。繰り返すが、全体を通してパラフレーズを大胆に試み、マキャベリとヴィーコの共通点と相違を平易で明確な言葉に置き換えるとしよう。

 

 まさしく《機会》という言葉は、さらにもう一度ヴィーコを同時にマキャベリに近づけもし遠ざけもする、類似と相違という点からも、さらには同調内部での違いという点からもである。

☛意味不明、こちらの読解力の問題か、あるいは著者の思考不足による表現の甘さなのか、つまり著者なりの結論の底にたどり着いていないということ、どちらだろう、今は後者だと思う。

 

事実、この‘機会’とはマキャベリの政治用語の鍵となるタームであることは周知の通り。マキャベリにとって、《機会》は《偶然》の、《出来事》の(これらのタームすべてはcadere{落ちる or 行き当たる}のラテン語同語源に結びつくが)政治的ヴィルトゥ{力量}の側からの解決可能性である。

 

 それは時機を得た君主の側からの認識力、つまりある結果を導く《有益な》活動のための、好機(kairos)と方法の認識力である。これがケンタウロス君主の好ましい才知である。それとは異なり、ヴィーコの目には、《機会》とは対立の媒介であって、人間の自由における{or人間の自由を司る}「摂理」の顕現であり、よってそこでは人間の利益が自由と理性の実現のためにある歴史過程内で変容させられるところの、その様態なのである。

☛何か哲学・思想系によくある拙い翻訳口調になってしまったが、原文を日本語に置き換えていくとふつうはこうなる、だからこそ未だに凡百の翻訳文が隔靴掻痒で、言葉数が多くなってこむづかしい漢字が相並ぶことになってしまうのだが、これはいただけないし、当方の好みとは合わないし、素直に一般的に読んでも意味がくみ取れない。昔話で終わるが、たしか「辞書に頼りながら翻訳しているようではダメだな」、と脳裏に残っている、いつどこでどなたかからだったかは思い出せないが、一理ある。だからマキャベリとヴィーコの違いは結局何なのだろう、マキャベリは慎重な行動人、ヴィーコは田舎の超一流書斎人と、今のところの私の理解程度となる。

 

ヴィーコ的には、機会とは、歴史-政治の楕円が{歴史-政治の不即不離の関係が}超越へと開かれていくその難路であり、マキャベリのように世俗の競技場にすべて喰い込んだままとどまることはない。終わり