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ヴィーコとマキャベリ(パラフレーズ版)

ヴィーコとマキャベリ(パラフレーズ版)

マキャベリ生誕500年祭の記念論集(Treccani版)

Gennaro Maria Barbuto

VICO e MACHIVELLI

in Il Principe di Niccolo Machiavelli e il suo tempo 1513∞2013, TRECCANI, 2013

 

 全体を通じてパラフレーズする(言い換えて要約する)わけだが、ここは素直に分かるところ、

分かりそうなところのみをピックアップするとしよう。最初にパラフレーズのさらなるまとめを

提示すると、以下の通り。

・「近代」をめぐって、歴史からのアプローチにヴィーコ、哲学からのアプローチにマキャベリ

を立てて両者を比較吟味、その結果議論を呼び有名なのが20世紀イタリアの哲学者ベネデッ

ト・クローチェの小論考。

・ヴィーコのマキャベリ批判は、おもに次の三点、すなわち反マキャベリ『君主論』を書いた友

人パオロ・マッティア・ドリアに対する賛辞、次にマキャベリをエピクロス、ホッブス、スピノ

ザと同列に置き、彼らを無神論で括って酷評、最後に功利主義の歴史認識と人間の歴史を最終的

に偶然に委ねることへの批判、を挙げることができる。

・ヴィーコとマキャベリを対比する象徴として、かたや稲妻がありもう一方は半人半馬のケンタ

ウロス族がある。

・人間に起きる出来事を理解するのにレトリック知(比喩を使った認識としておこう)を重宝す

る点では両者は共通。

・ヴィーコの政治思想にしてもマキャベリのそれにしても、二項対立の緊張関係が占めており、

両者の違いはマキャベリなら二つの焦点が常に世俗の現実問題としてあり{要は血が流れるわけ

だが}、ヴィーコはその対立関係が超越的に、言い換えれば「宗教的」ないし「神と関連付けて」

理知的に捉えられる。

・ヴィーコもマキャベリも古代ローマのシンパ、かたやデカルトからホッブスまでの近代政治科

学の原型とされる思想家たち{西ヨーロッパの近代思想家群}とは一線を画す。

・あとは重要語句について、ヴィーコとマキャベリにおける捉え方の比較相同の指摘。歴史にコ

ミットしその幾分かを制御する可能性のある手段として「軍事力」があり、両者ともその重要性

を認めている。法とくに「自然法」はヴィーコにとって摂理の顕現であるが、マキャベリにとっ

て「法律」とは人間の自由意思のあらわれ。「宗教」はマキャベリにとって政治支配の道具さら

には基盤、一方ヴィーコにとってはローマ・カトリックのキリスト教の教えがわれわれの真実と

なる。あと「機会」は両者にとってキーワードとなる、マキャベリは現実問題解決の突破口とし

て、ヴィーコは《摂理》のマジックが働く場として。

 要するにどうだろう、ヴィーコもマキャベリも西ヨーロッパ型のデカルトからホッブスに至る

近代知とは区別され、どう命名したらよいものか南欧型というか地中海型といおうか。さらにイ

タリア半島の中部と南部に現れた二人の思想家の間にはこれまたズレがあって、ヴィーコはマキ

ャベリの功利主義的な歴史観とキリスト教に対する敬虔さの著しい欠如をかのフィレンツェ書

記官に見出したようである。

 おしなべてこういう好き嫌いの感情は独り相撲であることが多く、マキャベリの実像にどこま

で迫っているかは別問題に違いない。しかし、だからこそ、この小論考の著者であるクローチェ

は自らの哲学大系を構築する中で彼ら両者をしかも愛情を込めて結びつけ統一づける着想を得

たのであろう。よって小論考末尾では、「マキァヴェッリにおける自覚せざるヴィーコ的観念」

および「ヴィーコにおける意図せざるマキァヴェッリ的観念」が、後代を生き経験を積んだ者の

眼にはありありと見えると結んでいる。すなわちクローチェ自身にはそう見えると記し、興味深

い世界観をわれわれの財産として付け加えた。

 

 以下は、実際のパラフレーズの過程である。

 ヴィーコとマキャベリの関係を「近代」に対する歴史叙述の立場と哲学の立場の論争としてク

ローズアップしたのが、哲学者クローチェ。(☛そうなると素直にヴィーコが歴史叙述側でマキャベリが哲学側になるということか。)それによると、ヴィーコは自著の中で何度もマキャベリを批判しているとのこと。具体的にはおもに三点、すなわちDe antichissima イタリア人の太古の知恵の

序文、De Uno (同書という意味でいいのか、それとも別の著作だろうか、unoで始まる著作

タイトルは見当たらないのだが)の書中、そしてもう一点。順番に言葉を足せば、最初の序文に

はヴィーコの友人である哲学者パオロ・マッティア・ドリアの著述である反マキャベリ『君主論』

への賛辞があり、次の書中では非難を込めてマキャベリをしてエピクロス、ホッブス、スピノザ

と同列に置き、人間の歴史における正義の可能性の余地を無きものにしたことへの酷評があり、

最後の一点の内容はというと、マキャベリが人間の歴史を偶然に委ねたこと、歴史を見る目が人

間の利益追求の単なる確認にとどまっていることへの批判という。(☛最後の点は私の経験からする

とおそらく『新しい学』の著作の結論あたりに出てくるその内容を指すのであろう。こうした例からクローチェはヴィーコがマキャベリを好ましく思っていないと判断したわけだ。)

 さらに歴史のヴィーコと政治のマキャベリを対比する象徴として、稲妻とケンタウロス型君主

がある。ヴィーコ流の解明に拠れば、野獣は大昔、天空を切り裂く稲妻への畏れから神の存在を

感じて人間へとその一歩を踏み出さざるを得ず、一方マキャベリは半人半獣のケンタウロス族こ

そ新君主の鏡とする、つまり政治においては、獣性と人間性、つまり獰猛さと思慮(遠くから見

通す力)なくば新君主はつとまらない。これこそ<ヴィルトゥ>、新君主の<徳>とした。(☛こ

こで感想なのだが、ケンタウロスを引き合いに出し指摘したのがグラムシだったのか、恥ずかしながら知らなかった。ここで眠いので一旦休憩。)

 しかし、人間に起きる出来事を理解するのにレトリック知を重宝する点では両者は共通。例え

ばデカルトなどはこのレトリック知を結論に至ることのない無駄な教育としていたし、ホッブス

は自身のリヴァイアサン学を明示的幾何学的なものとしていた。(☛レトリック知とは、マキャベリ

なら新君主=ケンタウロス、ヴィーコなら原初の野獣どもの旺盛な想像力と神の創造のことか、つまるところこのレトリック知に関してはヴィーコもマキャベリも同グループで、かたや近代哲学のデカルト、ホッブスなどが向こう側にいることになる。)

 ヴィーコの政治思想にしてもマキャベリのそれにしても、二項対立の緊張関係が占めており、

両者の違いはマキャベリなら二つの焦点が常に現実問題として横たわり、要は血が流れるわけだ

が、ヴィーコはその対立関係が超越的に捉えられるとあるがすぐにはよく分からない。思い切っ

て「超越的」を平易に言い換えると、「宗教的に」、とか「神と関連付けて」、ということで大雑

把には事足りるのではなかろうか。(☛例えばマキャベリなら野獣と人間、ヴィルトゥとフォルトゥナ、自由と必要、社会闘争と国家統一であるが、ヴィーコは人間の頭の中の問題として、要は野獣から人間へと発展進化する過程で獲得していく意識のその変容ぶりにもっぱらスポットライトを当ててそこに神の意志を見出しながら、ということか。)

 ヴィーコもマキャベリも親古代ローマ、かたやデカルトからホッブスまでの近代政治科学の原

型とされる思想家たちは<尊い古代>に対する拒絶。マキャベリはとくにリウィウスを通じて古

代ローマ共和制を尊び、ヴィーコは古代ローマの法整備に価値を置く。両者ともに貴族層と平民

の市民間対立が市民の活力を高め、自由の増大に功を奏すとする。これに対してリヴァイアサン

国家装置は、la neutralizzazione nichilistica del conflitto della macchina leviatanica 

とあるがここもよく解せぬところだ。(☛「リヴァイアサン国家装置の対立の無化的中和化」、直訳では何のことか分からない、あの「万人の万人に対する戦い」でよいのか、あるいは自己保存ために徹底的に戦い抜いて敵方を殲滅する権利のことを言っているのか、おそらくは常識的に前者で、リヴァイアサン国家は社会契約前の自然状態では万人が万人に対してオオカミとなるが、一方ヴィーコもマキャベリも古代ローマ社会は内部では階層間の社会闘争に明け暮れるもののこれがヘラクレイトス流に、つまりのちの弁証法に通じる市民全体の自由の保存と増進に繋がるという見立てであった、ということか。対外的にも都市国家ローマでは戦争が常態化するもののこれが大版図を有する古代ローマ帝国へと繋がるのだという捉え方、すなわちまとめてみればヴィーコもマキャベリも生命的、有機的連関を国家社会制度にも認めるが、それに対してホッブスのリヴァイアサンは機械的、無機的とい

う違いでよいだろうか。)

 

 市民間の党派性を妨げうる手段として、マキャベリは自国軍と法律と宗教を挙げる。(☛前には

travalicare の動詞を使うことについて疑義を呈したけれども、今はこう理解するのが良いよう

に思う。すなわち、自国軍、法律、宗教によって現実を望ましい形へとコントロールする余地は

あるものの、常にこれでうまくいくというわけではない、という意味で時代を超越する便法とは

ならないと受け取るのが良いかも知れない。)

 

軍事力について、ヴィーコも歴史におけるその役割を十分認めている。

 

自然法については、ヴィーコは時代ごとの法律こそ摂理の人間の歴史へのコミット、つまり顕現

と捉えており、一方のマキャベリは人間たちの《自由意思》が法律を作り、運命とか必然とか偶

然とせめぎ合いながら、人間の側の裁量の余地を生み出すとしている、だが保証があるわけでは

ない。

 

宗教は、マキャベリにとって単なる政治支配の道具あるいは基盤となり、社会におけるその《有

効性》が重要となる。かたやヴィーコにとってはキリスト教倫理のその内実を見過ごすわけには

いかない。ヴィーコの見立てからすると、マキャベリには道徳・倫理の観点が欠けており、政治

的利益追求のみだけを果たしているように見える。?功利主義の範疇に入るものとヴィーコはマ

キャベリを見ているわけだ。

 

 ただしマキャベリの利益追求であれ、それが摂理に適っていればヴィーコは認める。適ってい

るかそうでないかは常に事後にわかることで、歴史はヴィーコにとってもマキャベリにとっても

決定論には向かわず、人間の自由の拡張、衰退の行程となる。

 

 《機会》という言葉はマキャベリにとってもヴィーコにとっても歴史の原動力となる。しかし

その捉え方には違いがあり、マキャベリは新君主の現実問題の解決可能性であり、一方ヴィーコ

にとっては人間の自己利益追求活動がこの《機会》を経ることで変容し、人間の歴史における自

由と理性の増大・発展に繋がる媒介項となっている。

 

 つまるところ、マキャベリ的君主は現実課題に引っ張られてその理解よりも解決の糸口をタイ

ミングと行動によって見出そう果たそうとする仕事人であり、ヴィーコはというと学者肌かつ書

斎人で、考察対象は人間の意識の実際的な変遷とその理由であり、それと人間の作る歴史事象(諸

制度)との関係を原理にまで遡って証明しないでは気の済まぬ気むずかしい哲学者に他ならない。

 

 こう一応結論づけると、両者の肖像画の風貌、醸し出す雰囲気と無理なくしかも直感的に符合してくるのではなかろうか、そんな気がするがどうだろうか。